「最適輸送」でエネルギーコストの原理的限界を達成

- 省エネ情報処理の新たな設計につながる成果 -

2025/12/02

【工学研究科研究者情報】
大学院工学研究科応用物理学専攻 教授 鳥谷部祥一
研究室ウェブページ

発表のポイント

  • 数学の「最適輸送理論」から予測される、限られた時間における熱力学的なエネルギーコストの原理的な最小を、初めて実験で実現しました。特に、情報処理の基本過程である「情報消去」に相当する操作に応用しました。
  • 光の力で微小粒子を高速・高精度で制御する新開発の「走査型光ピンセット技術(注1)」により、水中で熱ゆらぎを受けてランダムに動く粒子を制御することで、数学の理論が予測する「最適輸送」の実現に成功しました。
  • 将来的に本成果は、よりエネルギー効率の高い情報処理技術や自律的人工ナノマシン設計の基盤となることが期待されます。

概要

私たちが何かを動かすときには、熱力学的なエネルギーコストが伴いますが、そのコストには原理的な最小値があります。コンピュータの情報処理も同様で、たとえば、情報を「消去」するにも、どんなに工夫してもこれ以下には減らせない最小のエネルギーコストが存在します。この限界は動かす速さに応じて変化しますが、これまでは無限にゆっくり操作する場合でのみ実験的に示すことができていました。

東北大学大学院工学研究科の及川晋悟大学院生(研究当時)、中山洋平助教、鳥谷部祥一教授は、東京大学大学院理学系研究科の伊藤創祐准教授、東京大学大学院工学系研究科の沙川貴大教授との共同研究により、光の力で微小粒子を高速・高精度に制御する技術を新たに開発し、数学の「最適輸送理論」が予測する、時間が限られた状況での理論上の最小エネルギーコストで、情報消去に相当する操作を実現しました。将来的に本成果は、よりエネルギー効率の高い情報処理技術の設計原理の確立につながると期待されます。

本成果は2025年12月1日付で総合科学誌Nature Communicationsに掲載されました。

研究の背景

私たちの身の回りのあらゆる動作には、エネルギー的なコスト(仕事)がともないます。コンピュータの情報処理も例外ではなく、たとえば「情報を消去する」という操作にも、必要なエネルギーコストには原理的な最小値(ランダウア限界(注2))が存在します。このような自然界の限界を示すのが熱力学です。

熱力学、特に熱力学第二法則では、ある操作を行うのに必要な最小のエネルギーコスト(仕事)を計算できます。ただし、この最小値は「無限にゆっくり」操作を行う「準静的過程(注3)」という極端な場合にしか当てはまらず、限られた時間で動かす場合には、必ず余分なエネルギーコストが必要になります。

こうした問題に対し、近年注目を集めているのが「最適輸送理論」です。最適輸送理論は「ものをどのように運べばコストを最も少なくできるか」を考える数学理論で、その起源は18世紀にまでさかのぼり、現在では経済学や生物学、AIなどにも応用されています。また、この理論を物理学に応用することで、熱ゆらぎのある微小な系を操作する際に、無限にゆっくりではなく限られた時間内で操作を行う場合でも、その最小エネルギーコストを理論的に導けることが示されています。

図1に示すように、微小な粒子を操作するとは、粒子がどこにあるかの確率分布を変えることを意味します。この理論では分布を「地図上の点」に見立て、異なる分布の間の距離を「ワッサースタイン距離(注4)」と呼ばれる特別な距離で測ります。この距離は、ある分布から別の分布へ粒子を移すときに必要なエネルギーコストの最小量に対応しており、2点を結ぶ最短経路(測地線)が最適輸送にあたります。最適輸送理論は実用上も大きな可能性を持つ一方で、実際の物理系でそれを実現するには高速・高精度の制御が必要であり、これまで実験例はありませんでした。


図1. 最適輸送。(a) 微小粒子の操作を「粒子位置の確率分布の変化」とみなす。初期分布と終分布の選び方に応じて、多様な操作を表現できる。(b) 理論的には、分布を地図上の点に見立て、分布間を結ぶ最短経路が、最小エネルギーコストを実現する最適輸送に対応し、分布間の「距離」がエネルギーの最小コストに対応する。(c) 1次元の場合は、左側は左に、右側は右にといったように、分布の「並び」を変えずに各部分を一定の速度で輸送するのが「最適輸送」。

今回の取り組み

本研究では、最適輸送理論が予測する「限られた時間で最も効率よく動かす操作」を、実際の物理系で実現しました。対象にしたのは水中の微小な粒子で、これらは周囲の水分子と絶えず衝突してランダムに動きます。このような熱ゆらぎのある微視的な系は、理論が想定する典型的な状況であり、その検証や応用に適しています。

まず光の力で微小粒子をつかんで動かす光ピンセット技術を発展させ、光の焦点位置を高速で動かして力の分布を自在に変化させる「走査型光ピンセット技術」を新たに開発しました。これにより、粒子が感じるお椀型のエネルギー地形(ポテンシャル)を精密に制御できるようになり、粒子がどこにあるかの確率分布を思い通りに操作することが可能になりました(図2a)。

この方法を用いて、粒子をある分布から別の分布へ決められた時間内に移すという実験を行い、理論が示す最小エネルギーコストでの輸送、すなわち最適輸送の実現に成功しました(図2b)。特に、粒子の分布を“0”と“1”に対応する2つのピークを持つ分布から、1つのピークを持つ分布に変化させることで、情報をリセットする「情報消去」に相当する操作を行いました。


図2. (a) 走査型光ピンセット。レーザーを高速で走査して任意形状のポテンシャルを作る。(b) ポテンシャル形状を時間的に変化させて、粒子位置の確率分布を制御し、最適輸送を実現した。

このとき、限られた時間での情報消去に必要なエネルギーの原理的限界を実験で達成しました(図3a)。 また、操作の速さや精度を変えた場合のエネルギーコストを測定し、速く動かしたり(図3aで横軸の数字が大きくなる)、精度を高めたりする(図3aの右側に示したパラメータの値が大きくなる)とエネルギーコストが増えるという、最適輸送理論が予測するトレードオフ関係を確認しました。操作速度が0となる準静的過程で熱力学第二法則から計算される最小値「ランダウア限界」が得られます。

本研究では、このトレードオフ関係の限界も実験で達成しています。図3bの実線が理論的な最小値であり、実験値はどの条件でもこの最小値に達しています。


図3. 最適な情報消去の実現。 (a) 操作にかかったエネルギーコスト。速く操作するほど、精度を上げたりするほど、エネルギーコストが大きくなった。最適輸送理論が予測する原理限界(実線)を実験(シンボル)で達成した。 (b) エネルギーコスト、速度、精度の間のトレードオフ関係(速度が上がったり精度の指標である失敗率が下がると、エネルギーコストが上昇する)が分かりやすいように、aの図をプロットし直した。

今後の展開

現在のコンピュータは、情報処理の際に原理限界を遥かに上回るエネルギーを消費しており、その多くは回路中の電流によって発生する熱散逸として失われています。情報量の増大や計算の高速化が進むなかで、この無駄なエネルギーをどこまで減らせるかは、今後の技術革新にとって重要な課題です。

将来的には、本研究で議論したような「どのように操作するか」という動作設計そのものが効率を左右するような状況が訪れると考えられます。将来的に本成果は、限られた時間での操作の原理的限界の解明という熱力学における基礎的な問題の解決に寄与するだけでなく、エネルギー効率が極めて高い情報処理技術の開発に資すると期待されます。

また、生体内では生体分子機械と呼ばれる、分子でできた微小な機械が動いていることが知られていますが、現在、これを模した人工の分子機械の開発が進んでいます。本成果は、ミクロな世界でのエネルギー利用を高効率化する設計にも役立つと考えられます。本研究は、こうした幅広い分野への波及を通じて、エネルギー利用の高効率化の根本原理を見直し、より持続可能な科学技術の実現に向けた基盤を築く成果といえます。

謝辞

本研究は、科学技術振興機構 ERATO「情報エネルギー変換(課題番号:JPMJER2302)」、科研費「微分幾何学に基づいた非平衡熱力学における普遍的原理の探究」(課題番号:JP22H01141)、科研費「生体分子機械の最適輸送プロトコル」(課題番号:JP23H01136)、科研費「ゆらぎの熱力学に基づく確率的コンピューティング基盤の創出」(課題番号:JP23H00467)、科研費「幾何学的な最適性に基づく熱力学的なトレードオフ関係の量子拡張」(課題番号:JP24H00834)の支援により実施されました。また、東北大学2025年度オープンアクセス推進のためのAPC支援事業」の支援を受けました。

用語説明

(注1)走査型光ピンセット技術

顕微鏡下でレーザー光を集光すると、その集光点で、1マイクロメートル(1ミリメートルの1/1000)程度の大きさの微小な粒子をピンセットでつまむように捕捉できる。この技術は「光ピンセット」と呼ばれる。集光点をゆっくりと動かすと、粒子はそれに追随して動く。一方、粒子が追随できないぐらい高速で集光点を動かすと、粒子は、各位置の平均的なレーザー強度によって決まるエネルギー地形(ポテンシャル)を感じる。本技術では、集光点の動かし方を高速に制御することで、ポテンシャルの形状を自在に作製し、かつ動的に変化させることを可能にした。

(注2)ランダウア限界

情報を消去するのに必要とされるエネルギーコストの限界。1ビットの消去にはkBT log⁡2(kBはボルツマン定数、Tは絶対温度。kBT = 4.1×10-21ジュールは熱エネルギー)のエネルギーコストがかかることが1961年にIBM社のロルフ・ランダウア博士によって提唱された。ただしこれは限られた状況でしか成り立たないことが判明している。その後の研究でより一般的な状況に拡張された。

(注3)準静的過程

非常にゆっくりと動かす過程のこと。熱力学第二法則により、操作に必要な最小のエネルギーコストを計算できる。この最小値は準静的過程でのみ達成可能で、速く動かすとどうしてもより大きなエネルギーコストが必要となる。最適輸送理論は、限られた時間内に動かすときの最小のエネルギーコストを計算でき、熱力学第二法則の限られた時間での操作への拡張といえる。ただし、熱力学第二法則は非常に一般的に成り立つ一方で、最適輸送理論では、限られた条件でのみ最小のエネルギーコストを計算できる。

(注4)ワッサースタイン距離

異なる分布間の類似度(距離)を表現する量。このような量は他にも考えることができるが、ワッサースタイン距離は、分布間の変化(輸送)に着目した量となっており、物理過程の操作でのエネルギーコストと直接関係することが理論的に分かっている。画像を分布とみなすことで、画像間の類似度の評価にも適用でき、AI分野などで注目を浴びている。

論文情報

タイトル: Experimentally achieving minimal dissipation via thermodynamically optimal transport
著者:
及川晋悟 東北大学大学院工学研究科 応用物理学専攻 大学院生(研究当時)
中山洋平 東北大学大学院工学研究科 応用物理学専攻 助教
伊藤創祐 東京大学大学院理学系研究科 附属生物普遍性研究機構/物理学専攻 准教授
沙川貴大 東京大学大学院工学系研究科 物理工学専攻/附属量子相エレクトロニクス研究センター 教授
鳥谷部祥一* 東北大学大学院工学研究科 応用物理学専攻 教授
*責任著者
掲載誌: Nature Communications
DOI: 10.1038/s41467-025-66519-9

お問合せ先

< 研究に関すること >
東北大学大学院工学研究科
教授 鳥谷部 祥一
TEL:022-795-7950
Email:toyabe@tohoku.ac.jp
< 報道に関すること >
東北大学大学院工学研究科・工学部 情報広報室
TEL:022-795-5898
Email:eng-pr@grp.tohoku.ac.jp
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