「考えること、ワクワクすることが大好き」
企画・設計・運営を手がける
建築界のイノベーター。
UDS株式会社 代表取締役会長
梶原文生
新しい何かがオープンする瞬間、
人々のワクワクをかきたてる。
2019年春、銀座3丁目に「MUJI HOTEL GINZA」が誕生する。コンセプトは、「『無印良品』の思想を体感できるホテル」。すでに中国で開業し、高い客室稼働率を誇る深圳、北京に次いで、世界3番目の「MUJI HOTEL」となる。そして、日本では初めての“無印良品”を冠するホテルだ。以前からのファンであるかを問わず、多くの人がオープンを心待ちにしていただろう。「MUJI HOTEL」だけではない。何かがオープンするという時、新しい建物や空間に足を踏み入れられることだけでなく、何かが始まること、何か新しいものにふれることへの期待がふくらみ、人々は“ワクワク”させられる。「MUJI HOTEL BEIJING」「キッザニア東京」「ホテル カンラ 京都」などを手掛けてきた「UDS株式会社」。彼らの強みは、設計にとどまらず、企画から運営まで一貫して請け負うスタイルだ。そしてその革新的スタイルを打ち立てたのは、建築界の第一線で活躍する創業者・梶原文生さん。建築家であり、“仕組み化”で社会に新しい風を送り続ける彼の原点を探る。


「やりたいことと結果が結びつけばいい」
医師の言葉に背中を押され、大学進学を決意。
梶原さんが中学生の頃、アフリカの飢餓問題が注目され、社会問題として取りざたされていた。ニュースを見た梶原さんは、医師になれば子どもたちのために働けると考え、難民救済活動を展開する団体のセミナーに参加。そこで、今も心に残る言葉をもらった。「講演会後、講師の医師に、アフリカに貢献できる医師になりたいと話したんです。そうしたら、君にいい記事があると言われて、後日自宅に記事が届きました。そこには、世界中で困っている子どもたちの救済のため、アメリカで事業を興してお金をつくり、そのお金を寄付しているアメリカ人の話が載っていたんです。そして、添えられていた手紙には、『結果までの選択肢はいろいろある。医師じゃなくてもいいだろう。やりたいことと結果が結びつけばいいんじゃないか』と書いてありました。その言葉で、自分も好きな道で子どもたちのバックアップをしようと決めたんです」幼い頃から自分の好きなことを模索し、「楽しく仕事をしたい」と考えていた梶原さんは、その後すぐにインテリアショップの開業を検討。さまざまな文化の交流地点である渋谷に焦点を絞り、不動産屋から空き店舗の情報を収集するなど奮闘したが、高校生では困難だと断念。大学に進学して、起業に必要な組織づくりのスキルから学ぶことにした。

東北大学漕艇部の合宿所での手厚い歓迎。
心を動かされ、東北大学へ。
“組織づくり学び”の場に選んだのは、大学の運動部。高校までバレーボール部で活動していた梶原さんだったが、大学では“組織づくり学び”を最優先事項に決め、全国各地のスポーツ強豪大学を検討した。「高校3年生の時、たまたま機会を得て、東北大学の漕艇部(ボート部)の合宿所を訪ねたんです。ちょっと話を聞けたら、くらいの気持ちで、ひとりで訪問したんですが、部員のみなさんがとにかく情熱的で。チームワークや練習についての考え方、自分たちの強み、他大のエリート部に勝つ方法など、熱く語ってくれました」手厚い歓迎に心を動かされ、東北大学漕艇部に入ることを決意した梶原さん。猛烈な受験勉強の末、もともと興味のあった工学部建築学科を受験し、合格を果たした。入学後の生活拠点は、当時名取市にあった漕艇部合宿所。朝5時に起きて朝練習を終えると、自転車で1時間以上かけて建築学科キャンパスへ移動。授業が終わるとまた合宿所に戻り練習、夕食をとって眠るというサイクルだった。「根性論だけでは他大に勝てない。戦術を立て、実行し、結果をみんなで共有しながらまた次の戦略を立てる。とにかく自主的に考え続ける部で、当時の運動部としては珍しいスタイルだったと思います」さまざまな大会に出場した4年間。特に記憶に残るのはソウルオリンピック選考会だった。


UDS株式会社 代表取締役会長
梶原文生

東京都出身。1985年、東北大学工学部建築学科入学。1989年より大手不動産会社勤務を経て、1992年、有限会社都市デザインシステム(1994年・株式会社都市デザインシステム、2012年・UDS株式会社へ社名変更)を設立。現在は会長としてスタッフ育成、新規事業拡大に力を入れる。東北大学大学院工学研究科非常勤講師。